2011年01月21日
国宝 神獣たちが集う久能山東照宮 その3
しばらくの間、更新ができずにすみませんでした。
その間も多くの人に来ていただきありがとうございます。
足掛け4日間、母がショートステイから帰ってきて、仕事も全部休みヘルパーさんも頼んで対応したのですが、ほぼ24時間体制でバテバテでした。夜中にも何があるかわからないので定期的に見に行かなくてはなりませんでした。
昨夜も3時に「足が痛くて眠れない、病院に行きたい」と言い出して困りました。ケガではないので救急に行ってもどうしようもないし。
この週末は講座の仕事があるので今日からショートステイに行ってもらいました。ちょっと一息です。
さて、前回の久能山の続きで最終回です。

久能山東照宮の参拝を終り、ロープウエイに乗ったのですが、気になっていたことがありました。
家康の霊廟よりも上の富士山が見渡せる一等地に愛宕神社があり、しかも参道がなく、愛宕神社があることなど何処にも書いてない。宮司から聞かなければわからない、いわば表向きは隠されているかのようにも思えます。

家康・秀忠・家光の徳川三代に仕え、久能山も日光も上野寛永寺も江戸の風水をも自在にプロデュースした天海が何故そこに小さな愛宕神社を配置したのか。
天海に関する伝説が気になります。
様々な時代小説や漫画などでも取り上げられていますが、天海はあの本能寺の変を起こした明智光秀ではないかという伝説があります。小山ゆうの『あずみ』にも天下の平和のためにテロリストを抹殺する暗殺団を組織する黒幕としても登場しますね。

山崎の合戦で敗れ、敗走中に討たれたのは影武者で、光秀自身は豊臣秀吉に復讐するため比叡山に隠れたのだと言うのです。そして同じく打倒豊臣を狙う徳川家康と裏で組んだのではないかと。
家康は信長と同盟を結んでいましたが、その実は信長の命令で正室と長男を殺さなくてはならなかったという恨みを持っていましたから、信長を倒し自分の天下取りの道を開いてくれた光秀に恩を感じていたはずです。
その後、天海となった光秀は自分の甥(斎藤利三)の娘を三代将軍家光の乳母(春日の局)として送り込み、徳川幕府の黒幕として君臨したのだと。そんな仮説もおもしろいですね。
その明智光秀が本能寺の直前の天正10年(1582年)5月、戦勝祈願のために参蘢したのが愛宕神社なのです。本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたといいます。翌日、同神社で連歌の会を催しましたが、その冒頭に詠んだ歌が「時は今 あめが下しる 五月哉」です。「あめ」とは表向きは五月雨(さみだれ)ですが、「あめ」=「天」であることに間違いありません。愛宕神社は明智光秀にとって人生最大の賭けに出る際に最も信頼する神であったと言えます。
富士山を仰ぎ見る久能山の頂上に密かに愛宕神社をお祭しているということは、やはり天海は明智光秀だったのでしょうか。
ちなみに明智光秀の家紋は左の桔梗紋です。天海は家紋に二番目の桔梗紋を使いました。瓜と桔梗の紋です。
先日の富士宮の蘇我神社で八木洋行先生が言った言葉を思い出しました。
「瓜の紋は悲壮な最期を遂げた人の怨霊を祭る神社に使うのです」
この紋章は明智光秀その人を示すデザインに違いありません。


参考までに、下左の桔梗紋は陰陽道の大家、安倍晴明の紋。右は坂本龍馬の桔梗紋。


坂本家は明智の血すじで本能寺の後、四国へ逃れ、光秀の本拠地の坂本を苗字にしたのだそうです。
徳川幕府の命運を決めることとなった龍馬も明智の流れを組むものだったのですね。
ここ久能山東照宮の楼門の随身の写真を思い出してください、

やはり桔梗紋の衣装をつけています。
そして日光東照宮の上の景勝地、華厳の滝を見る絶好の展望台があるのが明智平、これも天海が命名したのだそうです。
歴史は謎が多いので、どんなふうにも解釈できてオモシロイものです。
どちらにせよ、天海が平和な世の中を持続させるために構築した江戸・徳川の霊的防衛網の中心はこの久能山であると思います。

この図は日本平ロープウエイ乗り場にも描かれています。
長々とお読み頂きありがとうございました。
22日21:00をもってブログパーツで削除しました。音がうるさくてうっとおしいので(笑)。
ほしい人はこちらへ
その間も多くの人に来ていただきありがとうございます。
足掛け4日間、母がショートステイから帰ってきて、仕事も全部休みヘルパーさんも頼んで対応したのですが、ほぼ24時間体制でバテバテでした。夜中にも何があるかわからないので定期的に見に行かなくてはなりませんでした。
昨夜も3時に「足が痛くて眠れない、病院に行きたい」と言い出して困りました。ケガではないので救急に行ってもどうしようもないし。
この週末は講座の仕事があるので今日からショートステイに行ってもらいました。ちょっと一息です。
さて、前回の久能山の続きで最終回です。

久能山東照宮の参拝を終り、ロープウエイに乗ったのですが、気になっていたことがありました。
家康の霊廟よりも上の富士山が見渡せる一等地に愛宕神社があり、しかも参道がなく、愛宕神社があることなど何処にも書いてない。宮司から聞かなければわからない、いわば表向きは隠されているかのようにも思えます。

家康・秀忠・家光の徳川三代に仕え、久能山も日光も上野寛永寺も江戸の風水をも自在にプロデュースした天海が何故そこに小さな愛宕神社を配置したのか。
天海に関する伝説が気になります。
様々な時代小説や漫画などでも取り上げられていますが、天海はあの本能寺の変を起こした明智光秀ではないかという伝説があります。小山ゆうの『あずみ』にも天下の平和のためにテロリストを抹殺する暗殺団を組織する黒幕としても登場しますね。

山崎の合戦で敗れ、敗走中に討たれたのは影武者で、光秀自身は豊臣秀吉に復讐するため比叡山に隠れたのだと言うのです。そして同じく打倒豊臣を狙う徳川家康と裏で組んだのではないかと。
家康は信長と同盟を結んでいましたが、その実は信長の命令で正室と長男を殺さなくてはならなかったという恨みを持っていましたから、信長を倒し自分の天下取りの道を開いてくれた光秀に恩を感じていたはずです。
その後、天海となった光秀は自分の甥(斎藤利三)の娘を三代将軍家光の乳母(春日の局)として送り込み、徳川幕府の黒幕として君臨したのだと。そんな仮説もおもしろいですね。
その明智光秀が本能寺の直前の天正10年(1582年)5月、戦勝祈願のために参蘢したのが愛宕神社なのです。本能寺の織田信長を攻めるかどうかを占うため籤を引き、3度の凶の後、4度目に吉を引いたといいます。翌日、同神社で連歌の会を催しましたが、その冒頭に詠んだ歌が「時は今 あめが下しる 五月哉」です。「あめ」とは表向きは五月雨(さみだれ)ですが、「あめ」=「天」であることに間違いありません。愛宕神社は明智光秀にとって人生最大の賭けに出る際に最も信頼する神であったと言えます。
富士山を仰ぎ見る久能山の頂上に密かに愛宕神社をお祭しているということは、やはり天海は明智光秀だったのでしょうか。
ちなみに明智光秀の家紋は左の桔梗紋です。天海は家紋に二番目の桔梗紋を使いました。瓜と桔梗の紋です。
先日の富士宮の蘇我神社で八木洋行先生が言った言葉を思い出しました。
「瓜の紋は悲壮な最期を遂げた人の怨霊を祭る神社に使うのです」
この紋章は明智光秀その人を示すデザインに違いありません。


参考までに、下左の桔梗紋は陰陽道の大家、安倍晴明の紋。右は坂本龍馬の桔梗紋。


坂本家は明智の血すじで本能寺の後、四国へ逃れ、光秀の本拠地の坂本を苗字にしたのだそうです。
徳川幕府の命運を決めることとなった龍馬も明智の流れを組むものだったのですね。
ここ久能山東照宮の楼門の随身の写真を思い出してください、

やはり桔梗紋の衣装をつけています。
そして日光東照宮の上の景勝地、華厳の滝を見る絶好の展望台があるのが明智平、これも天海が命名したのだそうです。
歴史は謎が多いので、どんなふうにも解釈できてオモシロイものです。
どちらにせよ、天海が平和な世の中を持続させるために構築した江戸・徳川の霊的防衛網の中心はこの久能山であると思います。

この図は日本平ロープウエイ乗り場にも描かれています。
長々とお読み頂きありがとうございました。
22日21:00をもってブログパーツで削除しました。音がうるさくてうっとおしいので(笑)。
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愛知史跡巡り 犬山城と小牧城
SURF 遠州灘 5月13日(火)
SURF 駿河湾内 5月4日(日) Golden Week
SURF 駿河湾内 4月24日(木)・25日(金) べらぼう展
SURF 下田白浜 4月17日(木)
SURF 駿河湾内 4月14日(月)
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Posted by エディ タチカワ at 22:04│Comments(0)
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